The handsomest drown man in the world
ガルシアマルケス
あらすじ
小さな海辺の村に、海から大きくて美しい男の水死体が流れ着く。村人たちは彼の体を丁 寧に清め、葬る準備をする中で、彼の存在が村の価値観を揺さぶり、想像力をかき立てて いく。村人たちは彼に「エステバン」と名付け、彼の体の大きさや美しさ、重さから、彼 が生前どれほど不自由で孤独だったかを思いやる。特に女性たちは彼に深い共感を抱き、 彼の存在に感動する。エステバンの存在を通して、村人たちはこれまでの自分たちの暮ら しが狭く小さなものであったことに気づき、もっと広い家や強い扉、美しい生活を思い描 くようになる。そして、エステバンを葬った後、彼の記憶を大切にしながら、自分たちの 世界を拡張しようと誓う。
歴史的背景
・19世紀から20世紀前半にかけて、リベラル派 vs 保守派の内戦(例:1899–1903年の千日 戦争)や1948–1962年のLa Violenciaによって、地方の共同体は破壊と再生が繰り返され た(『百年の孤独』は1967年、本作は1968年の出版)。
・「植民地支配→内戦→再生へ」というストーリーラインの中で、村人たちはエステバンと いう「外部」「死者」「英雄」の存在を共同体の再構成に活用する。近年の研究では、本作 の無名の水死体エステバンを「歴史(過去)を持たない人物」と捉え、彼に物語(歴史) を付与していく村人たちの行為をネオ・コロニアリズム(新植民地主義)や帝国主義への 批判として読み解く視点も提示されている。これは、外部から突然現れた異邦人(エステ バン)が村の在り方を根底から変えてしまうさまが、未知の侵略者や支配者と遭遇した先 住社会の変容を寓意しているという解釈である。ただし、本作における変化はポジティブ で創造的なものであり、「想像力という解決策」を提示している点が特徴的である。
カントとベンヤミン
・ベンヤミンは、カント以来のドイツ観念論が築いてきた知識の統一的システムと経験 (Erfahrung)概念を尊重しつつ、これがしばしば時間性・共同性を欠いた思想だと批判 し、物語=Erzählungを伝統的で共有される経験(Erfahrung)として位置づけ、そこで 教えを担う文化的装置と見なす。これに対し、近代の小説は書物に閉じた個人的消費素材 となってしまい、経験の喪失を象徴すると考えた。マルケスの作品は、ベンヤミンが「終 焉した」とした語り手の芸術をよみがえらせたと評されており、読者にまるで昔話を“伝 え聞いている”かのような感覚を抱かせる。
・カントは、小説は主人公の内面を描くことによって、その模倣(他律)を勧めるものであ るため、道徳的ではないと批判した。
・「エステバン」は本来、「ラウタロ」(16世紀チリのマプチェ族の伝説的軍司令官LefTraru(スペイン語化してLautaro)に由来)に象徴される英雄的な存在ではなく、(その 名前のように)「普通の人間」(自己)でありながら、死んでまでも持て余すような大きな 身体(不可解な自然)を持っている。そして、その「魔術的」なものはヨーロッパという 「他者」を前にしたコロンビア社会(カント的な社会における自然)のようなものであ る。
・The Thematization of the 'Sea' メルヴィルの『白鯨』においても、本作においても、(あるいはヘミングウェイなどによ っても)未知と遭遇する場面における「海」の主題化が見られる。本作において、穏やか で静かな「海」は単なる舞台装置でありながら、村に変革をもたらす触媒的存在として機能している。海は外部からの未知なるものを運び込む媒介であり、静的な存在でありなが ら村に変革を促す象徴的触媒として重要な文学的機能を果たしている。本来「自然」であるはずの海が、死者が、我々に影響を及ぼすというストーリーラインによって、カントの「人間の二重体」の図式を転覆するのである。
・主人公のエステバンは死者であるために、本来いわゆる「小説」の使命とされている「内 面の葛藤」は主題化されない。そして、ただ「存在」のみがあり、行動することはな い。(謎の書記が"I would prefer not to." と言い続ける亡霊のように現れる例の小説を思 い出させる)そこから撒かれた種として、村という共同体の想像力を触発する。(=完全 に死に絶えることがなく、耳に流れ続ける音楽のようにして、我々を責任=応答可能性に 駆り立てさえる)
語りの展開
・文芸評論家のフレドリック・ジェイムソンは、マルケス作品ついて分析し、そこでは「視点(ポイントオブビュー)が存在せず、暗黙の語り手も読者代理もいない。いかなる意識の流れもなく、物語序盤の秩序が乱され最後に回復する、といったお決まりの展開もない」と指摘する
・語りは、海辺の村の状況説明 → エステバンの到来 → 共同体の変容というような順番でな される。初めはジンメル的な「風景」の客体的な描写、すなわち「三人称客観」視点での 描写がなされる。それがエステバンの到来とともに徐々に語り手は村の人間関係に内在す るようにシフトし、最後の変容した共同体は、息の長い(フォークナーなどを彷彿とさせ るような)流れるような一文へと繋がる。この語り手の視点の推移(子供の純粋な驚き→男たちの現実的対応→女たちの夢想と慈愛→共同体全体の変容)により、読者は村人たち の心情変化を追体験することになり、共同体の変化という主題が自然と浮かび上がる構造 になっている。
最後はウィリアムフォークナーを彷彿とさせるような、以下のような息の長い分で終わる。
But they also knew that everything would be different from then on, that their houses would have wider doors, higher ceilings, and stronger floors so that Esteban's memory could go everywhere without bumping into beams and so that no one in the future would dare whisper the big boob finally died, too bad, the handsome fool has finally died, because they were going to paint their house fronts gay colors to make Esteban's memory eternal and they were going to break their backs digging for springs among the stones and planting flowers on the cliffs so that in future years at dawn the passengers on great liners would awaken, suffocated by the smell of gardens on the high seas, and the captain would have to come down from the bridge in his dress uniform, with his astrolabe, his pole star, and his row of war medals and, pointing to the promontory of roses on the horizon, he would say in fourteen languages, look there, where the wind is so peaceful now that it's gone to sleep beneath the beds, over there, where the sun's so bright that the sunflowers don't know which way to turn, yes, over there, that's Esteban's village.
(カント的というよりもヘーゲル的?)
Iddo Landau, Metafiction as a Rhetorical Device in Hegel’s Phenomenology of Spirit and García Márquez’s One Hundred Years of Solitude (1992)